2015年12月21日放送のミヤネ屋で『世界が注目する脱北女性』である『パクヨンミ』さんがロングインタビューに応じていました。
紹介VTRでは、パクヨンミさんのこれまで22年の人生の経歴なども紹介されていました。
2014年の9月にアイルランドのダブリンでのスピーチをし、世界からも注目されている脱北経験を持つパクヨンミさん、ご本人著の書籍なども大変注目されている方のようです。
パクヨンミさんとは?
中朝国境の町・恵山(へさん)に1993年の10月4日に生まれたパクヨンミさん。
両親と姉の4人家族で、父が商売で稼げていた9歳ころまでは裕福な暮らしであり、2002年のアリラン祭での巨大マスゲームを鑑賞したのだそうです。
「当時の北朝鮮指導者の金正日総書記は『神』であった」とパクヨンミさんは語りました。
『自分の心が読める人』なのだと本気で信じており、奇跡が起こせるのだと思っていたのだそうです。
単なるリーダーではなく『すべて』であったのだそうです。
9歳の時、犯罪者一家の烙印を押され中国への脱北
父の闇商売が密告により発覚し、逮捕されてしまってからこれまでの裕福な暮らしが一転したのだといいます。
学校に行くこともできなくなり、川で服を洗濯、山で食べ物を探し、バッタやトンボを炙って食べる生活になったり、冬にはマイナス40度程度の極寒での生活、食料も凍ったイモなどしかなくなってしまったのだそうです。
このような飢えから、自由ではなく食料を求めるため、生存するための策として中国への脱北を決断することになりました。
中国の人身売買闇ブローカー
当時の中国といえば一人っ子政策で有名な厳格な人口抑制策があり、跡取りとして男の子を欲しがったため、男性が女性よりも3000万人以上多くなってしまった現実があったのだそうで、農村部などの多くで深刻な嫁不足問題があったのだそうです。
そのような中、脱北女性は高値で売買される『商品』であった、という背景があったようです。
パクヨンミさんの母親が、奴隷花嫁として売られてしまったのだそうです。
一旦は母親と離れ離れになってしまったパクヨンミさんでしたが、パクヨンミさん自身も13歳にして奴隷花嫁になるという条件を飲み込み、母親との再開を果たす事となったようです。
この頃と言えば中国では『北京オリンピック』目前の頃であり、国際世論に押される形でこうした闇ブローカーの取り締まりが厳しくなったようで、混沌としていたようです。
その混沌の中、中国各地を親子で転々とした後に青島のキリスト教会に駆け込んだそうです。
このキリスト教会は中国からモンゴルを経由して、脱北者を韓国に送るという団体だったのだそうで、北京オリンピックがあったことによる転機により、韓国への移住が可能となったのだそうです。
とはいえ、モンゴルのウランバートルまで徒歩で移動してからの移住だったため、そのさなかで命を落とすかもしれないという大変危険極まりないものだったようです。
【パクヨンミさんの書籍】
Amazon▶生きるための選択 ―少女は13歳のとき、脱北することを決意して川を渡った
楽天ブックス▶生きるための選択 [ パク・ヨンミ ]
韓国での生活
15歳で韓国に着くものの、当然通常の生活などは出来なかったようです。
北朝鮮で学んだ事といえば反米や反日教育ばかりであり、実生活をする上での知識はなにひとつなく、『巨大な赤ちゃん』であったと振り返りました。
韓国の支援施設『ハナ院』
脱北者が韓国社会に適応出来るように日常生活への対応や職業訓練などを行う施設があるようです。
パクヨンミさんはハナ院で『勉強マシン』と呼ばれてしまうほど、猛勉強をしたのだそうです。
それは、大学へ行くためでした。
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指導者以外への『愛』を知る衝撃が走ったのは映画タイタニック
北朝鮮にいた頃などは、『自分』について考える事はなかったとのことで、たとえば「趣味は何?」「好きな色は何?」問われても分からないほどだったのだそうです。
愛に関しても、愛というのは指導者のために捧げるものである、という定義だったようです。
そういった中でタイタニックに触れた時に、男の人が愛する女性のために命を捧げる姿を見て、『自由の味』と『人間味』を感じる事となったのだそうです。
こうして韓国での生活がようやく、『天国』であると感じたのだそうです。
コロンビア大学に入学
自らのこうした壮絶な体験を通して、人権活動を志したパクヨンミさんはコロンビア大学への入学が決定しました。
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